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東京高等裁判所 平成6年(行ケ)221号 判決 1997年5月29日

原告 シンテックス・ファーマシュウティカルス・インターナショナル・リミテッド

被告 特許庁長官

主文

原告の請求を棄却する。

訴訟費用は原告の負担とする。

この判決に対する上告のための附加期間を90日と定める。

事実

第1当事者の求めた裁判

1  原告

(1)  特許庁が平成1年審判第1449号事件について平成6年5月19日にした審決を取り消す。

(2)  訴訟費用は被告の負担とする。

2  被告

主文第1、2項と同旨

第2請求の原因

1  特許庁における手続の経緯

原告は、昭和55年7月4日、名称を「d、―2―(6―メトキシ―2―ナフチル)プロピオン酸の分割」とする発明について、1979年(昭和54年)7月6日及び同年11月26日に米国においてした特許出願による優先権を主張して、特許出願(昭和55年特許願第90783号)をしたが、昭和59年11月9日、上記出願を原出願とし、名称を「d、―2―(6―メトキシ―2―ナフチル)プロピオン酸の分割」(後に「d及び―2―(6―メトキシ―2―ナフチル)プロピオン酸の塩の混合物」と補正)とする発明(以下「本願発明」という。)について、分割出願(昭和59年特許願第235326号)をしたが、昭和63年9月21日、拒絶査定を受けたため、平成元年1月23日、審判を請求した。そこで、特許庁は、この請求を、平成1年審判第1449号事件として審理し、平成6年5月19日、「本件審判の請求は、成り立たない。」との審決し、その謄本は、同年6月8日、原告に対し送達された。なお、原告のため、出訴期間として90日が附加された。

2  本願発明の要旨(特許請求の範囲第1項の記載)

d―及び―2―(6―メトキシ―2―ナフチル)プロピオン酸とN―R―D―グルカミン[ここで、Rが炭素原子2~36個を有するアルキルまたは炭素原子3~8個を有するシクロアルキルである]との塩の混合物。

3  審決の理由の要点

(1)  本願発明の要旨は前項記載のとおりである。

(2)  これに対し、米国特許第3904682号明細書(1975年9月9日発行、以下「引用例」という。)には、2―(6―メトキシ―2―ナフチル)プロピオン酸及びこの酸には一対の光学対掌体が存在すること、光学対掌体の光学分割は常法により行うことができること、上記酸及びその薬学的に許容される塩は抗炎症、鎮痛及び解熱活性を有すること、d―2―(6―メトキシ―2―ナフチル)プロピオン酸とメチルグルカミンとから、d―2―(6―メトキシ―2―ナフチル)プロピオン酸のメチルグルカミン塩を得ることが記載されている。

(3)  本願発明と引用例記載の発明(以下「引用発明」という。)とを対比すると、両者は、いずれも、2―(6―メトキシ―2―ナフチル)プロピオン酸のN―アルキル置換グルカミン塩である点において共通するが、次の点において相違する。

ア 上記塩の塩基成分であるN―アルキル置換グルカミンのアルキル置換分について、本願発明が、炭素原子2~36個を有するアルキル又は炭素原子3~8個を有するシクロアルキルであるのに対し、引用発明はメチルであること(以下「相違点<1>」という。)

イ 上記塩について、本願発明が、d―体と―体の塩の混合物であるのに対し、引用発明がd―体のみの塩であること(以下「相違点<2>」という。)

(4)  そこで、上記の相違点について検討する。

ア 相違点<1>について

炭素原子数2~36のアルキルも、炭素原子数1のアルキルであるメチルも、いずれも(アルキル)同族体に属するから、それぞれのアルキル(基)を含む各グルカミンは、化学構造上、類似の化合物であるということができる。したがって、引用例記載のN―メチルグルカミンに代えて、本願発明の炭素原子数2~36の、アルキルがN原子に置換したN―アルキルグルカミンを用いる程度のことは、当業者が適宜容易になしえたものと認められる。

イ 相違点<2>について

一般に、d―体の酸の塩が安定に存することが実証されていれば、その光学対掌体である―体の酸の塩も安定に存在しえることは、当業者にとって自明の事項に属する事柄である(現に、引用例においても、本願発明のこの種2―ナフチルプロピオン酸誘導体の塩は、すべてd―体、―体ともに同一の塩を形成していることが認められる。)から、本願発明のように、d―体の酸の塩と同一の、―体の酸の塩を別途調製して、d、―体の両者を単に物理的に混合した形態、すなわち「混合物」とする程度のことに、格別の技術的困難性を見出だすことはできない。

そして、本願発明の混合物(2成分のみからなるもの)が、混合物であることによって、それ自体、特に予期しえない効果を奏するものとも認められない。

これに対し、請求人(原告)は、引用例には、d、―2―(6―メトキシ―2―ナフチル)プロピオン酸の光学分割に際し、分割剤として本願発明のグルカミンを用いることについては何ら記載されていないから、本願発明の混合物を想到することは容易ではなかった旨主張する。

しかしながら、本願発明は、本願明細書及びその特許請求の範囲の記載からも明らかなように、d―2―(6―メトキシ―2―ナフチル)プロピオン酸のN―R―Dグルカミンと、―2―(6―メトキシ―2―ナフチル)プロピオン酸のN―R―Dグルカミンとの2成分の混合物であって、d、―すなわちラセミ―2―(6―メトキシ―2―ナフチル)プロピオン酸の光学分割方法や、N―R―Dグルカミンよりなる該ラセミ体用分割剤などの発明ではない(因みに、該ラセミ体の光学分割方法については、既に原出願において特許されている。)から、請求人(原告)の主張は、特許請求の範囲に基づかない主張という外なく、採用の限りではない(なお、付言すれば、本願明細書中の実施例1~37は、いずれも、溶媒等を含む3成分系以上の混合物であるか、あるいは、d―体の塩のみ(1成分)のものであって、本願発明(2成分)の混合物の実施例とは認められない。)。

(5)  したがって、本願考案は、引用発明に基づいて、当業者が容易に発明することができたものであるから、特許法29条2項の規定により特許を受けることができない。

4  審決を取り消すべき事由

審決の理由の要点(1) ないし(3) は認める。

同(4) アは争う。

同(4) イのうち、一般に、d―体の酸の塩が安定的に存することが実証されていれば、その光学対掌体である―体の酸の塩も安定的に存在しえることが、当業者にとって自明の事項であることは認め、その余は争う。

同(5) は争う。

審決は、各相違点についての判断をいずれも誤り、本願発明が引用発明から容易に推考することができたものとした点において違法であるから、取り消されるべきである。

(1)  相違点<2>の判断について

ア(ア) 本願発明は、まったく新たに見出だされた、光学分割に適した属性を有する、新規中間体組成物に関するものである。

すなわち、光学分割とは、光学的に不純な、d―体と―体の各化合物の混合物から、光学的に純粋な、どちらか一方の光学活性体を得ることである。d―体と―体の上記混合物は、通常、d―体と―体とにおいて諸性状が相互にほとんど同一であるため、それ自体では分割できないことから、光学分割が可能な、それらの誘導体ないし塩を探索、研究し、見出だされた誘導体ないし塩を光学分割に適した中間体とみなし、この段階で、d―体と―体の光学活性体を相互に分離し、単離した一方の光学活性体の誘導体ないし塩を分割前の物質の形態に戻すことにより、光学分割が行われる。

本願発明に係る混合物は、光学分割を実施する上で、分割過程における重要な中間体として位置付けられるべき新規組成物であり、中間体組成物として光学分割に適するという、引用例からは予測することのできない有用性を有するものである。

(イ) 上記中間体組成物は、N―アルキル置換―D―グルカミンを含むことにその特徴があるが、これが、光学活性体に分けやすいジアステレオマーとしての特殊な性質を有するものであること、すなわち、それが、光学分割剤として使用可能なものであることは、予想外のことであり、本出願前にはまったく知られておらず、また、d―2―(6―メトキシ―2―ナフチル)プロピオン酸と、ある種のN―R―D―グルカミン塩が、驚くべき医学的活性を有することも、知られていなかった。

本出願(分割出願)は、N―R―D―グルカミンの光学分割剤としての利用性という新知見を、光学分割における重要な中間体としての形態により特許請求をしているものである。

(ウ) 本出願当時の技術水準においては、発明的研究努力を経ずして、いかなる塩、いかなる誘導体が、ある物質に対する光学分割剤になりえるかを予測することはできなかったものであり、また、予測のための手掛りになるべきものもまったく知られていなかった。そのため、光学分割にあたっては、どのような塩や誘導体が、光学分割に適した中間体たりえるかを見出だすことが重要であり、常用されるごく僅かの光学分割剤が用いられる場合を除き、分割用中間体が新規物質であるか既知物質であるかにかかわらず、分割方法の着想の困難性に応じて特許性が判断されたのである。そして、光学分割用中間体に適した新規物質の創製により、初めて目的が達成される場合には、光学分割法とは別個に、新規中間体物質の創製自体についても、特許の対象としての価値があるとするのが当業界の共通常識である。

(エ) 他方、引用例においては、光学分割にあたって、常用光学分割剤の使用以上の何物も開示していない。

本願発明は、このような、常法の域を出ない引用発明とは異なるものであり、本願発明に係る中間体組成物の特許性を示すにあたっては、その組成物の作用効果として、当然に光学分割における適合性等についての主張を伴うことになる。

しかるに、審決は、このような本願発明の作用効果は、光学分割法に関する原出願の発明の作用効果であって、本願発明の作用効果ではないとするが、これは本願発明の主題を見誤った判断である。

イ(ア) また、前記のとおり、光学分割とは、光学的に不純な、d―体と―体との混合物から、光学的に純粋な光学活性体を得ることである。

引用発明において、得ようとする目的物は、d―2―(6―メトキシ―2―ナフチル)プロピオン酸(以下「d―体の酸」という。)であり、したがって、―2―(6―メトキシ―2―ナフチル)プロピオン酸(以下「―体の酸」という。)は不純物である。

すなわち、引用発明は、―体の酸が混じっているために純度の低いd―体の酸から、純粋なd―体の酸を単離することであって、引用例はその点を教示するにすぎない。引用発明においては、d―体の酸を単離するという光学分割の目的を達した上で、医薬としての利用に一層都合の良いように、メチルグルカミンとの塩に変えただけである。

したがって、引用発明は、光学的精製により、―体の酸を除いて純粋なd―体の酸を単離したものであるから、それにもかかわらず、除いたばかりの不純物としての―体の酸を、もう一度d―体の酸に混合して、元の木阿弥にするような発想は、技術的見地からして到底起こりえない。

審決は、このように、実際に起こりえないことをその前提としており、明らかに誤っている。

(イ) 更に、引用例は、d―体と―体の存在及びd―体の酸とN―メチル―D―グルカミンとの塩を開示しているが、―体の酸とN―メチル―D―グルカミンとの塩を、単独でも、d―体の酸の塩との混合物としても、具体的に開示していない。

この点からも、本願発明は、引用発明から容易に想到しえるものとはいえない。

(ウ) 更にまた、引用例においては、d―体の酸を、医薬用途のために適切な塩に変換させることのみが記載されているのであり、他方、わざわざ医薬用途に適しないものとして除いた―体の酸を、医薬用途のための塩に変換しようとすることの動機付けを教示する記載は、まったく存在しない。

(エ) 引用例における光学分割法は、前記のとおり常法によるものであるが、それは、目的の塩に至るまで4工程を必要とし、その内容は別紙(1) に記載のとおりである。

他方、本願発明における光学分割法は、別紙(2) に記載のとおりであり、本願発明に係る組成物(別紙(2) の(b))は、出発物質であるd―体及び―体の酸の混合物から1工程で得られ、その後の1工程で直ちにd―体の酸の塩が得られる。

また、引用例は、非効率的な常法の光学分割法しか開示がなく、光学分割するに際し、N―メチルグルカミン塩が分割剤になるかもしれないというような、着想のヒントとなるようなものは、何も示されていない。

本願発明に係る光学分割用中間体は、これから分割するものであるから、必然的にd―体と―体との混合物であるが、引用発明においては、既に光学分割し終わったd―体の酸を更に塩に変えたものであって、塩はd―体の酸の塩のみに限られる。

ウ 本願発明に係る混合物については、特許庁の「物質特許制度及び多項制に関する運用基準」が適用されないことは争わないが、本願発明は、その創製が容易でない、光学活性体の相互分離が可能となる物理的性状差を発現し得る中間体塩の創製にあり、このような光学分割する前の中間体塩混合物の形態をもって発明の保護態様としたものであり、これが発明の保護態様とされることは一般的に認められていることである。

エ 以上のとおりであるから、審決が、本願発明に係るd―体と―体の塩の混合物について、格別の技術的困難性を見出だすことができないとしたこと及び上記混合物が、予期しえない効果を奏するものとも認められないとしたことは、本願発明と引用発明との相違点<2>について、判断を誤ったものであることが明らかである。

(2)  相違点<1>の判断について

ア 審決は、本願発明の特許性を判断するに際し、それが、引用発明とは目的物質も利用目的も異なっているにもかかわらず、利用目的の予測可能性の評価の観点では、目的物質があたかも公知物質であるかのような論法によって、本願発明の類推が容易であると認定しているが、それは不当である。

イ すなわち、引用例記載の化合物は、d―体の酸とN―メチル―D―グルカミンとの塩であるところ、本願発明の目的組成物は、d―体の酸の塩と―体の酸の塩との混合物であり、かつ、その塩形成成分は、N―低級アルコール(メチルを除く。)―D―グルカミンであるという差異があるから、本願発明と引用発明とは、互いに明確に異なるものであり、審決もそれを否定していない。

しかしながら、審決が、本願発明に係る混合物について、それが、新規物質ではあっても、引用例記載の塩と化学構造的に同族の近似化合物であることを理由に、その間の利用目的の差異(引用発明の利用目的は、医薬としての性能の向上にあり、本願発明のそれは、引用例記載の常用手段から類推できない新規手段による光学分割にある。)を考慮することなく、引用発明からの類推が可能であるとしていることは、誤っている。

本願発明と引用例記載の塩のように、物質としては近似していても、利用目的において、互いに容易に類推しえない関係にある場合には、近似物質は、同族物質であっても類推困難な物質であり、特許性があるものとして扱うのが、特許出願の審査に際し従前から広く採択されている考え方である。

ウ したがって、審決が、本願発明の塩基成分の構造についても、引用例記載の塩の化学構造から容易に想到しえたものと認めたことは誤りである。

第3請求の原因の認否及び被告の反論

1  請求の原因1ないし3の各事実は認める。

同4は争う。

審決の認定、判断は正当であり、審決には原告主張の違法はない。

2  取消事由についての被告の反論

(1)  相違点<2>の判断について

ア 原出願から分割出願された本願明細書の「発明の詳細な説明」の項に、「本発明はd―2―(6―メトキシ―2―ナフチル)プロピオン酸及び―2―(6―メトキシ―2―ナフチル)プロピオン酸を分割して実質的にd―2―(6―メトキシ―2―ナフチル)プロピオン酸に富んだ生成物を製造する方法に関する。」(甲第2号証6頁13行ないし末行)、「要約すれば、本発明の方法はd―2―(6―メトキシ―2―ナフチル)プロピオン酸及び―2―(6―メトキシ―2―ナフチル)プロピオン酸の混合物(略)をN―R―D―グルカミンまたはその塩で分割し、実質的にd―2―(6―メトキシ―2―ナフチル)プロピオン酸に富んだ生成物、すなわち製薬学的に活性な薬剤を生成させることからなる。」(同7頁10行ないし末行)と記載されている事実に照らしてみるまでもなく、本願発明に係る組成物は、あくまでも、d―体及び―体の酸を光学分割する際、光学分割剤としてN―R―D―グルカミンを用いることにより、分割途中において不可避的に経由する(中間)組成物として位置付けられるものであるに過ぎない。

そして、本願発明を技術的思想の創作としてみたとき、また、本願発明が権利化された場合の権利の広さ、大きさ(一般には、d―体及び―体の酸の、N―R―D―グルカミンによる光学分割法に対しては勿論のこと、その組成物を利用するあらゆる場合について権利が及ぶ。)を考慮するならば、少なくとも、本願発明のような発明の進歩性の判断にあたっては、d―体及び―体の酸が幸便に分割できたことをもって、本願発明が進歩性を有するものとすることはできないというべきである。

なお、本願発明は、「d―体の酸とN―R―D―グルカミン塩と、―体の酸とN―R―D―グルカミン塩」との混合物であって、特許庁の「物質特許制度及び多項制に関する運用基準」にいう化学物質発明の対象になるものではなく、同基準にいう「中間体」に該当しないから、同基準をもって本願発明に特許性があるものとすることはできない。

イ 本願発明は、特許請求の範囲の記載から明らかなように、特定のd―体及び―体の酸とN―R―D―グルカミン塩との混合物そのものを発明の構成としているものであり、決して、d―体及び―体の酸の分割方法に係るものを目的としている訳ではない。

したがって、本願発明については、殊更に分割方法の結果だけからみて、その困難さをいうのは不適当であって、本願発明のような組成物(混合物)そのものの特許請求に対しては、純製造技術的にみて、該組成物を、現実に安定的に存在させることが容易であったか否かを判断すれば足りるものというべきである。

ウ 更に、そもそも、本願発明のような複数工程の結合からなる発明(技術)においては、出発原料をはじめ、その途次におけるあらゆる中間物質(組成物)は、無価値であるはずがなく、工程内では等しく重要であることは言を待たないところである(さもなくば、その発明が成り立たない。)。

したがって、本願発明の中間組成物が価値あるものであるからといって、そのことゆえに、本願発明が容易になしえたものではないとすることは、相当ではない。

(2)  相違点<1>の判断について

審決は、本願発明の混合物及びその混合物における各成分化合物が、既知の混合物、化合物であったとしているものではなく、引用例においても、これらについての記載が見当たらないことから、被告も、上記混合物及び化合物が、本出願時において新規なものであったことを認めるのに吝かではない。

しかしながら、上記混合物及び化合物が新規なものであったとしても、そのことから、直ちに、本願発明に係る混合物が、進歩性を有することになるものでないことは当然である。

また、本願発明の特許請求の範囲の記載によれば、本願発明は、単に、2成分化合物の混合物からなるものであって、その利用目的を問わないものである以上、引用発明との利用目的の差異については、格別の考慮を払う必要は認められない。

第4証拠<省略>

理由

第1請求の原因1ないし3の各事実(特許庁における手続の経緯、本願発明の要旨、審決の理由の要点)については当事者間に争いがない。

また、引用例の記載内容、本願発明と引用発明との一致点及び相違点並びに一般に、d―体の酸の塩が安定的に存することが実証されていれば、その光学対掌体である―体の酸の塩も安定的に存在しえることが、当業者にとって自明の事項であることについても、当業者間に争いがない。

第2本願発明の概要について

成立に争いのない甲第2号証(本願発明についての特許願書及び願書添付の明細書)、第3号証の1(昭和63年4月13日付け手続補正書)、同号証の2(平成元年2月21日付け手続補正書)、同号証の3(平成元年2月22日付け手続補正書)、同号証の4(平成2年12月12日付け手続補正書)及び弁論の全趣旨によれば、本願発明の概要は以下のとおりである。

1  本願発明は、d―体の酸及び―体の酸を分割して、実質的にd―体の酸に富んだ生成物を製造する方法(以下「本件分割方法」という。)における中間体組成物に関するものである(甲第2号証6頁13行ないし17行、弁論の全趣旨)。

2  d―体の酸は、米国特許第3904682号明細書に記載された、公知の抗炎症剤、鎮痛剤及び解熱剤である。

本件分割方法は、d―体の酸及び―体の酸の混合物又はその可溶性塩の混合物を、N―R―D―グルカミン又はその塩で分割し、実質的にd―体の酸に富んだ生成物、すなわち製薬学的に活性な薬剤を生成させることからなる。

ここで、N―R―D―グルカミンのRは、炭素原子2ないし36個、好ましくは2ないし18個を有するアルキル、又は、炭素原子3ないし8個を有するシクロアルキルである。

公知の化学的合成後に生じるような、d及び―体の酸のラセミ混合物が、本件分割方法に対する現在の好適な出発物質である(同7頁1行ないし8頁6行)。

本件分割方法の範囲内で好適な分割剤は、N―n―プロピル―D―グルカミン、N―n―ブチル―D―グルカミン及びN―n―オクチル―D―グルカミンである(同9頁5行ないし8行)。

3  本件分割方法による分割は、分割剤による、d―体の酸と分割剤との塩、及び―体の酸と分割剤との塩の間の溶解度に明確な差異を有する不活性有機溶媒中において、一般に、室温もしくは周囲温度、及び用いた溶媒の還流温度までの昇温間において行われる。

d―体の酸と分割剤(N―R―D―グルカミン、例えば、N―n―プロピル―D―グルカミン、N―n―ブチル―D―グルカミン及びN―n―オクチル―D―グルカミン)との塩は、溶媒に対する溶解性が、―体の酸と分割剤との塩の溶解度よりも明らかに小さくなければならないが、そのように小さい場合には、加熱した溶液を一般に周囲温度又は室温にまで冷却した際、d―体の酸と分割剤との塩が、この溶液から晶出される(同9頁9行ないし10頁9行)。

4  出発物質(d―体及び―体の酸又はその可溶性混合物)を分割剤の存在下において、昇温下に、一般に約60℃ないし約100℃又は溶媒の還流温度範囲に加熱し、溶媒に加えたすべての物質を溶解させる(これにより、本願発明に係る混合物が生成される。)。

この溶液を必要な時間、昇温下に保持した後、これを周囲温度にまで徐々に冷却する。冷却工程中に、好ましくはd―体の酸の塩及び分割剤(例えば、N―n―プロピル―D―グルカミンによるd―体の酸の塩)の種結晶を入れる。

生じる結晶性の沈殿物は、d―体の酸と分割剤との塩に富んでいる。

この段階で得られる結晶性物質(d―体の酸と分割剤との塩に富んだ物質)を、濾過して分離し、洗浄した後、水に加え、必要に応じて加熱して、結晶性物質を再溶解させることができる。

こうして、実質的にd―体の酸に富んだ白色結晶性の生成物が得られる(同11頁16行ないし14頁10行、弁論の全趣旨)。

5  d―体の酸のN―R―D―グルカミン塩は、抗炎症剤、鎮痛及び/又は解熱剤、血小板凝固阻止剤、繊維素溶解剤、平滑筋弛緩剤として有用である。また、上記の塩は、月経困難症の処置及び閉経期後の症状を軽減するための薬剤としても有用である(同21頁10行ないし16行)。

第3審決取消事由について

そこで、原告主張の審決取消事由について判断する。

1  相違点<2>の判断について

(1)  本願発明に係る混合物は、d―体の酸の塩と―体の酸の塩とを混合したものであること、また、引用例においては、2―(6―メトキシ―2―ナフチル)プロピオン酸及びそれについての一対の光学対掌体(d―体及び―体の酸)が存在することが記載されていること、更に、一般に、d―体の酸の塩が安定的に存在するならば、―体の酸の塩も同様に安定的に存在し得るものであり、そのことは当業者において自明の事項であることについては、前記第1のとおりいずれも当事者間に争いがなく、それらの事実を考慮するならば、審決での認定のとおり、d―体の酸と―体の酸をそれぞれ別途に調整し、それらを単に物理的に混合して、本願発明の「混合物」とすること自体には、技術的に格別の困難があるものとは認め難いというべきである。

この点について、原告は、引用発明は光学的精製により―体の酸を除いて純粋なd―体の酸に遊離したものであり、もう一度両者を混合して元の木阿弥にするような発想は起こりえないから、審決の判断は誤りであると主張する。

しかしながら、審決は引用発明においてもう一度両者を混合することが容易であるとしているものではない。審決は、引用発明におけるd―体の酸は、光学分割をする前の生成工程において本願発明のようなd―体の酸の塩と―体の酸の塩との混合物であったものである(そのこと自体原告は争っていない。)から、d―体の酸の塩が安定に存することが実証されていれば、その光学対掌体である―体の酸の塩も安定に存しえることを前提に、当業者であれば、引用発明に基づいて、本願発明の混合物を想到する程度のことに格別の技術的困難性はないとしたものであることは、審決の理由の要点から明らかであって、審決の理由の要点から明らかであって、審決の判断に誤りはなく、原告の主張は理由がない。

また、原告は、引用例は、―体の酸とN―メチル―D―グルカミンとの塩を具体的に開示していなく、医薬用途に適しないものとして除いた―体の酸を医薬用途のための塩に変換しようとすることの動機付けを教示する記載もないこと等を理由に、相違点<2>に係る本願発明の構成を得ることが困難である旨主張するが、そのことが相違点<2>についての審決の判断を左右するものでないことは前記判示から明らかである。

(2)  以上のとおりであるから、引用発明に基づいて相違点<2>に係る本願発明の構成を得ることに格別の技術的困難性がないとした審決の判断に誤りはない。

もっとも、構成上本願発明が当業者に容易に想到しえたものであっても、本願発明の奏する作用効果が引用発明からは予測し得ない顕著な作用効果であるときは、本願発明はその作用効果において予測性がなく進歩性を認めることができるものといえよう。

そこで、本願発明に係る混合物について、上記の作用効果の顕著性が認められるか否かを検討する。

前記第2の「本願発明の概要」によるならば、本願発明に係る混合物は、d―体及び―体の酸のラセミ体混合物に、分割剤であるN―R―D―グルカミンを加えて、d―体の酸及び―体の酸のN―R―D―グルカミン塩とし、それらの塩の間の溶解度の差を利用して、d―体の酸のN―R―D―グルカミン塩と、―体の酸のN―R―D―グルカミン塩とに光学分割する工程(別紙(2) のとおり2工程となる。)において、分割に適した塩として生成される中間体(d―体の酸及び―体の酸のN―R―D―グルカミン塩、別紙(2) の(b))に相当するものであること、また、上記のとおり分割されることにより生じるd―体の酸のN―R―D―グルカミン塩は、抗炎症剤、鎮痛及び/又は解熱剤等の医薬品として有用なものであることが認められる。

しかしながら、本願発明に係る組成物は、―体の酸とd―体の酸とを光学分割して最終生成物を得る過程において生成する中間組成物であることは当事者間に争いがなく、このように最終的に光学分割されるための中間組成物において、当該組成物が光学分割に適した塩として生成されているということは、最終生成物を得る過程において不可避的に生ずる中間組成物に当該組成物を用いれば光学分割に適するという最終生成物の製法における作用効果であり(本願発明はN―R―D―グルカミン塩よりなるラセミ体分割剤の発明ではない。)、またこのようにして分割されたd―体の酸のN―R―D―グルカミン塩が医薬品として有用であるということは最終生成物の奏する作用効果であって、中間組成物そのものの作用効果ではない。

特許庁の「物質特許制度及び多項制に関する運用基準」の第一部、第1には、「VII  その他」の「1.中間体」の項に、「中間体とは、化学物質を製造する過程で合成される物質であり、最終生成物の原料となることにおいて有用性をもつ物質をいう。中間体についても化学物質である以上、この運用基準を適用する。(中略)中間体の進歩性は、その化学構造、最終物質に至る経路、最終物質の効果等に基づいて判断する。」と記載されているが、ここにいう「化学物質」とは、同基準がその冒頭で記述しているように、「純粋物」と同義語であって、「混合物」とは相容れない概念であるところ、本願発明に係る組成物は、前記認定のとおり「d―体の酸とN―R―D―グルカミン塩と、―体の酸とN―R―D―グルカミン塩」との混合物であって、前記運用基準にいう「中間体」に該当しないことは明らかであり、本願発明に係る組成物が中間生成物であっても同基準の適用はない(このことは原告も争っていない。)。また、このような混合物である中間生成物については、発明の進歩性の通常の判断手法に従い、当該発明に係る物質の奏する作用効果に基づいてその進歩性を判断すべきものであって、同基準にいう化学物質と同様に最終生成物の効果をもってその進歩性を判断すべきものとは認められない。

原告は、引用例における光学分割法は、常法によるものであって、目的の塩に至るまで別紙(1) のとおり4工程を必要とするのに対し、本願発明における光学分割法は、別紙(2) のとおりであって、本願発明に係る組成物は出発物質から1工程で得られ、その後の1工程で直ちにd―体の酸の塩が得られる旨主張するが、そのような作用効果は正に最終生成物であるd―体の酸の塩の製法の作用効果であることは明白である。

そして、前掲甲第2号証及び第3号証の1ないし4を検討しても、本願明細書には、本願発明に係る混合物がそのような構造の中間組成物であること自体によって格別の作用効果を奏するものであることについての記載も示唆もなく、これが当業者に自明であるともいえない。

したがって、本願発明に係る混合物が引用発明に比して格別の作用効果を奏するものともいえないから、作用効果の顕著性を理由に本願発明に進歩性があると認めることはできない。

2  相違点<1>の判断について

本願発明と引用発明に共通する2―(6―メトキシ―2―ナフチル)プロピオン酸のN―アルキル置換グルカミン塩の塩基成分であるN―アルキル置換グルカミンのアルキル置換分について、本願発明の「炭素原子2~36個を有するアルキル」と、引用発明の「メチル」とは、いずれも(アルキル)同族体に属する物質であって、それぞれのアルキル(基)を含む各グルカミンは化学構造上、類似の化合物であるから(この点は原告も争っていない。)、引用発明において、N―メチルグルカミンに代えて、炭素原子2~36個を有するアルキルがN原子に置換したN―アルキルグルカミンを用いることは当業者にとって適宜なし得た程度のことであって、その点に格別の技術的困難が存するとはいえない。

この点について、原告は、本願発明の塩と引用発明の塩とは、物質として近似していても、利用目的が相違するから、互いに類推し得ない関係にあると主張する。

しかしながら、原告の主張する利用目的の相違なるものは、最終生成物である引用発明の目的と中間組成物である本願発明の目的の差異であり、本願発明に係る混合物を光学分割して最終生成物を得る目的は、引用発明と同じく医薬に有用な生成物を得ることにあり、また、原告の主張する本願発明に係る混合物の作用効果なるものはそれ自体の奏する作用効果といえないこと前述のとおりであるから、原告主張の理由で前記置換が困難であるということはできない。

したがって、相違点<1>についての審決の判断に誤りはない。

3  以上のとおりであるから、相違点についての審決の判断は正当であって、審決に原告主張の違法は存しない。

第4よって、原告の本訴請求は理由がないから、これを棄却することとし、訴訟費用の負担及び上告のための附加期間の定めについて行政事件訴訟法7条、民事訴訟法89条、158条2項を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官 竹田稔 持本健司 山田知司)

別紙(1) 、(2) <省略>

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